とりとめのないこと

雑記とか雑記じゃないのとかいろいろ

9月9日 スイッチ>3DS

今日はずっとDSでゲームをやっていた。

ここ数日、私に触発された弟も一緒になって3DSで遊んでいたが、今日発売のスプラトゥーン3が届いたことによって、あっけなくスイッチにその座を取って代わられていた。「新しいゲーム」という存在はあまりにも魔性だ。

 

私はそれに反抗するように、何年ぶんかの埃をかぶったDSを引っ張り出して遊んだ。

古いからか、途中で画面が固まって動かなくなったり、一瞬だけ画面が真っ暗になることがあった。

そのたびヒヤッとし、ゲームのシナリオとは関係ないところでハラハラさせられ通しで、何かやるごとにセーブしなければ気が済まなくなるはめになった。

セーブ癖はあるに越したことはないから良いは良いが、そうならざるを得ないという状況でセーブ癖を得るのはなんか違う気がするな、と思った。

ある程度欠陥があるものの方が人が作ったもの、という感じがして好きだが、度を超えると愛嬌がなくなる。

まあ飽きるまではしばらくやるんだろうが。

9月8日 「違うけど似ている」の名前

YouTubeでコントをよく見るようになった。
見終わった後の感覚が、ショートショートを読んだ後に似てるなと感じることが多い。
多分お話のつくりというか、骨組みみたいなものがショートショートと同じだからだと思う。
 
こういう、「違うけど得る感覚が似ている」という体験は面白いなと思った。
何か音楽を聴いたときの感覚と絵を見た感覚が似ていたとか、これ以外の例がパッと思いつかないが、特に芸術に分類されるものに触れたとき、似たようなことは他にも何度かあった気がする。
「芸術」と呼ばれるものはテーマが同じでも表現方法がたくさんあるから、そんなことが起こるのも考えてみれば不思議ではないのかもしれない。
 
 
前述したような「○○な感覚」的な、探せば経験したことがある人が結構いそうなものに出会うといつも「もう名前が付いている現象かもしれない」と思って検索してみるが、それを簡潔に表す検索ワードが思いつかず、大抵求めている答えは出てこない。結局メモの肥やしになって終わる。どこかでどうにかして活かせないかなあと思うが、それもまた思いつかない。
 
 
これは種類の違う思い付きだが、同テーマで全く別の表現方法の作品を見比べる、とかやってみたら面白そうだな。
どっかでそういう展示やってたりしないだろうか。

9月7日 事実

情熱大陸とか、有名人が対談、鼎談する番組なんかも見ると面白いし、どこか事実には価値があるんだなと思わされるところがある。
有名人のゴシップがテレビで取りざたされるのもそういう理由なんだろうか。
いや多分違うな。向けられる視線が全然違う。
 
 
 
ドキュメンタリーは写真と同じで、事実を切り取っている。
だから創作よりも深読みする必要がないし、ストレートに入ってくる。
好み的にも世に出ている量的にも創作のお話を選ぶことが多いから、たまに見るドキュメンタリーは鮮度が良くて面白い。
 
ただ今日はドキュメンタリーと知らずにその映画を見たから、「これからお話がどう展開していくのか」とか「あの人黒幕なんじゃないか」みたいな予想を立ててしまって、見終わってからいい意味で裏切られた感じがした。
「この人たち演技上手すぎないか」と思いながら見ていたのが杞憂で、少し安心もした。
お話の展開を予想してしまうの、楽しむためにあんまりよくないのかなと思うが、今更やめるにやめられない。どう付き合っていくのがいいんだろう。
 
 
珍しくドキュメンタリー映画を見たら、ノンフィクションの本が読みたくなった。
今から何か探そうと思う。

9月6日 ブルーライト、ブルーライト、ブルーライト

ゲーム内のカジノで遊びながら、パソコンで雑誌を読んだりライブを見たりした。合間にスマホで漫画も読んだ。文字に起こすとちょっと奇妙な状況だ。

 

ブルーライトブルーライトブルーライト。今日は3つ。これにテレビやスイッチが追加される日もある。情報に溺れそうだな。

自分は思っていたよりも、ブルーライトに侵されているらしい。何が中毒の直接的原因なんだろう。今度調べてみよう。

 

今日パソコンで雑誌を読んでみて思ったが、雑誌は紙の方が好きだ。平たい画面に内容が映し出されるのを見ると、「読んでいる」より「見ている」感覚が勝ってしまう。

写真は見やすかった。文字は認識できるが咀嚼できなかった。私のコンディションの問題かもしれないけれども。

あと気に入った記事はスクラップするのも楽しいから、今後買うのはやっぱり紙かなあ。

紙媒体は一定数好きな人がいるから、完全に電子に移行してなくなってしまうことはないんだろうが、減っていくかもしれないのはいろんな所が痛い。減っても価格高騰しないでほしいな…

 

 

今日は普段紙でやることを電子機器でやったから、目が疲れた。

というか今も画面に向き合っているので、「疲れている」が正しいか。

今日は寝が浅いだろうなあ。

9月5日 DSの二ノ国の魔導書が好きだった

数年ぶりに3DSを開いて、二ノ国をやった。

 

二ノ国はDSソフトだが、3DSを買って以降はもうずっと3DSでやっている。

今後DSを使うことがあるのかわからないが、愛着がありすぎて捨てられない。

 

 

二ノ国は、作画をジブリが担当していたり、音楽を久石譲が手掛けていたり、ソフトとともに分厚い魔導書が付いていたりとものすごい豪華さで、DSソフトの中では当時結構異色だったイメージがある。

私はソフトを貪るように遊ぶ兄の横でそれを眺めたり、魔導書を読んだり解読したりしていた(ソフトは1つしかなかったから)。

魔導書は、いつ読んでもワクワクする。

見た目が洋書みたいでゴツくてかっこいいし、中にはたくさんの呪文の描き方や二ノ国の地図、イマージェンという二ノ国の生物について、それに二ノ国に伝わるおとぎ話のようなものまで詳細に書かれており、冒険心を大いにくすぐられる。

最後の方のページには二ノ国の文字があいうえお順に並べられていて、タイトルや本の中に散らばったそれを解読することができる。

該当のページからそのページに戻っては1文字ずつ解読する作業が、とても楽しかったことを覚えている。

何かの本で読んだが、感情が伴った記憶は忘れにくいというのは本当らしい。

 

 

多分兄はラスボスも倒してクリアしたんだろうと思うが、私はゲームの最後の方のシナリオが記憶にない。ちょっとの間ソフトを借りてデル・モカール(二ノ国内のラスベガスみたいな都市)でカジノをやったことは覚えているのに。

そういえば、確か私はあれでブラックジャックのルールを覚えた。

ドラクエなどにも言えることだが、カジノで寄り道するの、楽しすぎやしないかと思う。カジノステージが出てきたらとりあえず1等の景品と交換できるくらいまで稼ぐし、カジノで手に入れたレベルに似合わぬド派手な装備で低レベルなモンスターがいるところを闊歩する。

ゲームでカジノをやるのはメダルゲームや本物の賭場で遊ぶよりお金も労力もかからないから、結構いいと思っている。本当にギャンブルをやると身を滅ぼしそうだから、そういう意味でも自分にはゲームでのギャンブルが妥当だ。

 

話がそれてしまった。閑話休題

昨日兄弟と話していたらDSの話になって、無性に二ノ国がやりたくなったのでやり始めた。

懐かしさと面白さで感情の昂りがものすごい。

ここ数年で二ノ国の映画が公開されたりソシャゲ化されたりもしていたが、自分の中でDSの二ノ国を超えることはなかった。

映画はそもそも見ていないから何とも言えないが、ソシャゲの方は事前予約もしてリリース日にやり始めたものの、ログインボーナスやランキング維持の圧迫感に疲れてやめてしまった。もしかしたら自分とソシャゲの相性が悪かっただけなのかもしれない。

そういう部分でソフトは買いきりだから気が楽でいい。

 

 

だらだら文字を打っていたら0時になってしまったので、もうこの辺にして投稿する。

9月4日 兄との会話特有の緊張

意図があるのかないのかわからないが、最近兄にも弟にもよく話しかけられる。

 

弟に対しては特別何も思わないが、兄に対しては少し緊張してしまう。

弟とは年が離れているから、何をされようが言われようが笑って済ませられるし、普段さんざんしょうもないことを言い合っているのでもう最早何を言ったっていい、という安心感がある。

しかし兄とは今まで、互いの近況を話すとか軽口の応酬とか、その手の会話でコミュニケーションをあまりとっていなかったためか、微妙に緊張する。

今これを言って「急に距離詰めてきたな」と思われないか、とか今の発言はこう言った方が良かったんじゃないのか、とか初心者みたいな心配をしてしまう。

兄が話のネタを持って話しかけに来たとき、無駄に接待みたいな大げさな対応をしてしまう場合があり、「それは違うような気がする」と頭では思う。行動には反映されない。

非常に困る。

 

兄との会話に限らないが、会話はいつもぶっつけ本番だから怖い。

会話がうまくいかなくても笑いあえる関係なら問題ないが、そうでない場合はひたすら失敗におびえてしまう。良くない方向に考えすぎる自分の思考の癖と、「会話」というものがミスマッチでいかんともし難い。

 

 

多分兄も私も、小学生を過ぎてからずっと距離感を掴みあぐねていて、今ちょうどお互いが歩み寄ろうとしている。

今更感はあるが悪いことではない。

だからその運びをうまくやりたいが、今のところまだもだもだしている。

 

前に兄が急にコロッケを作ろうと言ってきたときみたいに、今度は私から一緒にまた何か作ろうと誘ってみたりしようか。兄もそういう目的で持ち掛けてきた誘いだったのかもしれないし。

9月3日 許すのも悪癖

今日は主にネットで記事やツイッターの文を読んでいたので、具体的に何を読んだのかとか何をしたとかを覚えていない。ふわっとしている。

 

雑誌の小さな1コーナーより、どこかのサイトで読んだ記事の方が記憶に残っていない印象がある。

紙の本と電子書籍の違いについて調べたとき、知識の定着具合がどうとか集中力がなんとかと書いてあった気がする。

確かその記事もネットで読んだ。

 

大体何かしら記事を読んだら、そのあとおすすめや関連記事が出てくるからそれらを読んでいく。

そうしているといくつも読んだ記事が思い出せなくなって、そもそも自分が何のためにパソコンを開いたのかも忘れる。

そして時間が空費され、1日を振り返ったときに「今日何したんだっけ」と焦る。

ネットに時間を費やした後の「何もしなかった」感は本当に何なんだろうか。怖いからやめてほしい。それとも本当に何もしていないに等しいということなんだろうか。

そうだとしたら良くない。「何もしない」をした、の方がまだいい。

 

でもネットの記事を読んで時間が溶ける日というのは、それ以外の選択肢があったうえでそれを選んでいるということだから、これはこれでいいのかもしれない。

という言い訳で悪癖を許すのは甘すぎるだろうか…